愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

自分がいちばんすごい人であるという事実を受け入れていく

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どんなに凄い人に見えても、本来同等

例えば、キムタク、

例えば、マイケルジャクソン、

例えば、総理大臣、例えば聖者、

例えば宇宙人、

例えばさまざまな神様・・

すごい人だなあ、とかすごい存在だなあっていうのがある。

今までの地球ではそうした上と下のゲームをめいいっぱいやってきた。

でも、そろそろもういいかなあ~って思う。

きのうの春分の日は、スピリチュアル界では、宇宙元年のはじまり、なんていわれているけれど新しい風からは、本当にもうそのようなゲームはもう合わないように感じる。

自分の世界では自分が一番凄い人

「○○さんっていうすごい人と知り合いでさあ~」なんて興奮して語って優越感に浸るようなことは、今の時代には合わなくなってきたんだと思う。

何が凄いって、誰が凄いって、ほかでもない自分が一番すごいんだなあ~ということを去年の終わりくらいから急激に意識するようになった。

というか、そのように思わなければ私は切り抜けられない現実に直面し、強制的にも矯正的にもそんな風に意識的に考えるようにしてきた。

外側の世界の誰かさんが凄いって言ったって、私の世界では私の意図が絶対だ。

その人がどんなに凄そうに見えようとも、私の意識の代わりはできないわけだ。

私の意識が私の生き方の司令塔なのだから。

そう考えたとき、自分の持っている力の凄さに気づけた。

自分の世界では、私に一番力があって、一番凄い存在なんだなって。

だからこそ、誰かを自分の上に置くのはやめよう、と決めた!

本来の位置に自分を君臨させる

自分の力をしっかり使っていける状態を整えるために、どんなに凄いと思える人であっても意識の上で自分より上に誰かを置かない。

私はそのことがとっても重要ではないか?と思っている。

本来あるべき正しい位置に自分を君臨させることによって、私の力は存分に発揮できていくんではないかと思う。

この本来の位置に自分を座らせることは、同時に自分自身をとことん尊敬し、愛していくことと同じことなのではないか?とも思う。

なぜなら、これは自分の心の内側の声を一番に大切にする、ということになるから。

そうではないときには、外の誰かのことを自分の気持ちをさしおいて優先していたりするのだから。

あの人は凄い人だから、ということで、その人のために一生懸命自分が小間使いように働くことになったりもする。

でも、もうこれまでのようにそのように自分を小さく見積もることが合わないような気がしている。

自分のためだけに、ある意味究極の利己主義になることが、本来の自分を生かすことなのだろうなあと思う。

例えば、今は亡きマイケルジャクソンがこの町に来る、となったら、今までであれば、自分のようなどこにでもいる凡人は、当然のように小間使いの役回りとして動くにちがいない。

でも、そこをグッと耐えて(笑)、マイケルジャクソンに注ごうとしていた自分のエネルギーは自分のために使うようにすると良いのだと思う。

 

 

 

 

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