愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

誰にもわからない自分の中の葛藤を宇宙理論で超えられるのか?

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宗教的な教えで植え付けられた恐怖をどうするのか?

今朝はちょっとだけ心の中に余分なきもちが多くなっていることを感じ、不安があった。

私はあるヨガの瞑想団体から脱会を決めているので、(自分の脱会の意思は出したものの先方からの返事が停滞したまま)自分でオリジナル瞑想なるものに取り組んでいる。

かれこれ伝授してもらった瞑想をしなくなってから1か月以上は経過している。

今までの手ごたえとしては十分で、むしろさいごの頃の数年、その瞑想をしていたとき、「このまんまで果たしでうまくいくのかなあ?」と思いながらいたときより、オリジナル瞑想の方が随分と軽い感覚を得られているようにも思っていた。

わたしが伝授してもらった瞑想のような何かリアルなエネルギーの動きを感じられるわけではないのだけれど、何も気負わない自分に戻れるようにも感じる。

ある種の刺激は足りないようにも感じるけれど、もしかするとその心地よい感覚それこそが、自分にとっての麻薬に近かったのかなあ?なんてことも今は思ったりする。

ほわーっととても気持ちがいいような感じがするのだけれど、そちらに惹かれすぎて、自分がおざなり、置き去りというか。

そう思うとやはり、誰かの傘下にいた、ということなのかもしれない。

これぞ、私にとってはマインドコントロールだったのかな?と、ふいに思う。

まっさらな私ではなくなって洗脳されていたのかな?なんて思う。

本当にすばらしい教えだったのかもしれないのだけれど、自分にとって苦しみになったのだから、私にとってはもう不必要ということなのではないかと思っている。

でも、それを今の時点ではっきりと言い切れるものが自分の中にあるわけでもない。

もしかしたら、今思うようにやって、そのうち、やっぱりちがったかも~、ってならないと言い切ることもできないのだし。

ただ、もし、本当に自分のみで思うように生きられるのであれば、はっきり言ってそっちの方が、身軽だし、めんどくさい付き合いもないし、マイペースだし、かっこいいと感じる。

やっぱり何かに頼っているのって、どっちかっていうとかっこわるいと感じる方だし、なくてすむならその方が好みなんだと思う。

あ、でも好きな人なら甘えたいときに甘える感じは好きだけれど。。(笑)

今までの教えの場合、その教えや人物が好きなわけではなかった。

ただ、そのようなエネルギーがほしくて、という理由だけだった。

なので、私のようではなく、その教えを伝えている人や、そこのルールなどがとても心地よいという人こそ、合う教えなのだろう。

 

宇宙理論で恐怖を超えていく?

今のオリジナル瞑想はしているものの、少し気持ちが重くなり、恐怖心などが顔を出した時、その協会から言われていた「やめたらもっと汚れやすくなり、人生にカルマが出現するだろう」という言葉が頭をよぎったりする。

ここが私の誰にもわかることがない乗り越えないとならない恐怖の部分だ。

どの宗教でもそのようなことは言われるのだろうけど、自分としては私の所属していた団体はまたちょっと違うと思っている。

その教えは宗教団体とも違うからだ。教祖様がいるわけではないし、なんでも自由というのを言われるわけだ。(と言っても、実際には教祖様がいてルールがある、という感覚になってしまったのが私なのだ(笑))

そもそも通常の宗教であれば私ははまってなんかなかったと思っているからだ。

そこには完全に悟っている立場からの見地が存在していたから宗教に関係なく、すべての人に必要な教えと思っていた。

今でも私は通常の宗教にない内容があったという風には認識している。

だから、凡人のわたしが到達するのはほど遠いと思いながら教わっていたことだから、わたしの考えられる領域をはるかに超えたところからのアドバイスがあり、私にはそれが絶対的な内容と感じていた。

もっている性質がまじめだったり素直だったりすると、こうしたものにどんどんはまりやすい、というのがあると思う。(自分で言うな、という感じだと思うけれど、切実にそう思う。)

ただし、今の私は別の視点をもつようになり、究極的にはその教え自体が私のつくった幻だった、と考えるようになった。

私はそこで学んでいて、他の多くの会員さんとはちがって通うこと自体がおっくうになってしまう、というある種、末期のような状態に陥った。

そこで、「どうして自分なりにまじめにやってきたというのに、こんな風な状態に自分がなってしまうのだろう?」ととてもつらかったり、悲しい思いがよく湧いてきていた。

そして、わたしがやりがちな、「ああ、やっぱり私はダメなんだ」と自己否定になっちゃったりもした。

でも、葛藤を続けていく中でYouTube動画などいろいろと助けを求めて学んでいるうちに、別の見方が自分の内側から湧いてくるようにもなった。

「今、私がこの教えを学んで感じている状態になってる、ってそれ自体がおかしいことよね、」と思い始めたら、なんだかフッと楽になれた。

今は、そこの教えが絶対と思っている時とは見方が大きく違っているため、一生そこで学んでいくつもりだった立場から、このように考えるならば、これからまた違う考えと生き方で生きていくことができるかもしれない、と思うことができた。。

それは、ハッピーちゃんなどが言っている、宇宙の創造主は自分であり、自分の思い込みの世界が外側の世界を創り出した、という理論だ。

これは、誰かを上に置くこと→自分以上に誰かを上に置くことをしない。ということだ。

このことは、YouTube動画のakikoさんなどもお話されているような自作自演ということともおんなじことだ。

人生劇場はすべて自分が勝手に創った妄想の中で自分が演じているだけ、ということである。

このように思えば、悟りの存在すら自分が無意識に必要としていたからこそ、私の目の前に現れた、と考えることができる。

どんなすごい人が現れようと、この考え方であれば、常に人生の主役は私であり、この宇宙には究極的には私しかいない、ということでしかない。

だって、自分が勝手にイメージを使って創り出しているのだから。

そのように考えて、私の師匠のことも、幻だった、と思うようになったら、本当に不思議とその存在感は小さくなり、あれほど毎日思っていたのに、今は忘れて過ごしていることさえあるのだ。

そして、今思っていることととしては、わたしはそのような大きな存在や空気間はすごく憧れたけれども、決して自分が信者になりたいわけではなかったのかもしれない、ということだ。

そこで学べば自分もそのような人になれると聞いていたからやってみたのだけれど、なんだか違う、自分は自分の人生を使ってこんな信者さん的な生き方をしたいわけではない。という気持ちがずっとあったということだ。

なので、何か宗教とかに自分が所属していて、そこで気持ちよくやれているのなら問題ないけれど、そうではない場合は、自分の本当の望みではないのかもしれないと思う。

だからそこにいてひどくしんどくなった、という方は、ぜひ宇宙理論を受け入れてみることに挑戦していただくと良いのではないかと思う。

自分の力を真に信じられるようになり、自分に力があると思えるようになるということがありそうだからです。

というか、出発点の時点で、自分は無力で目の前の教えには力がある、と思ってスタートしてるわけなんですよね汗。

まあ、計画では、自分もそこ学ぶことでそのような存在になれる、と思っていたわけですが、私の場合は、はじめのうちは良かったのだけれど、長くなってくると、何か自分がもっと●●しなければならない、となっていき、何か自分の理想の人生を叶えたりなりたい自分になるということよりも、そこの中に取り込まれてしまうような感覚になってしまったわけです。

これじゃあ、自分自身は欲求不満となって、自分のことを全然見てもらえていないのだから、さみしくなってやりきれなくなっちゃいますよね(笑)

でも、今、自分には力があるのだから自分で直接宇宙と繋がって自分らしい状態に戻る、と思うようになっているので、「私は宇宙の創造主です」と宣言できちゃうようなかんじなんです(笑)

 

わたしは個人として尊重され、自由でいたいと思う

宗教的なところってきっと多くのところがそうなんでしょうけど、退会を申し入れしても、自分のところの教えが一番との強い思いがあるため、すんなりとは聞き入れてもわえないんですよね。

会の人たちは、わたしのために絶対に退会させてはならない、という風に思ってくださっているということなのかもしれないのですが、でも、それだとやっぱり本人の自由ってないんじゃないのかな?って思います。

本人の自由意志は尊重されないっていうことになると思うんですよね。

たとえ、私が知らないもっと大きな宇宙の視点から見て、仮にまちがった動きをしているとしても、それであっても、自由な動きをする権利というのがあるわけですし、すんなり尊重されてもいいんじゃないかな?なんて思ったりするわけなんですよね。

簡単に決めたわけではないですしね。

浅はかに決めたなんて思われてるのかな?と思うと、それも悲しいことです。

そんなに必死に阻止しようとするって、自信がないのかなあ?みたいな(笑)

もし、まちがっていて戻ってくるのもOKよ、って送り出してくれたら気楽に自分の思うように体験して帰ってくることもできるのになあ、って思います。

それとも、もし違っていたら、絶対に許してやらない、とか、罰として帰らせてやらない、などがあるんでしょうか?

そのこと自体、ジャッジであり、愛がないなあとも思います。

こういうことまで考えると、そのような私が思ったことが尊重されない感じなら、本音として、やっぱりそういう教えって受け入れられないなあと思っちゃうんですよね。

結局はわたしが自分の宇宙の中に、自分よりも大きな存在を創り出し、その対象となる人物や教えの物語の中に自ら入っていた状態だったのかな?なんて思っちゃうんですよね。

そういうことを踏まえた上で、自分がこの宇宙の創造主という視点で宇宙理論を見てみると、人間に与えられた力ってすごいなあと大いに実感することができているかもしれないです。

神のような存在が私たちに対して向けてくださっている信頼や存在は本当に深く、わたしたち人間ひとりひとりに創造性という偉大な力を与えてくださってこの世界に送りだしてくださっているんだな、と思います。

これは、たとえその創造が、正しいことだろうが間違ったことであろうが、関係ないということを理解することができます。

だって、世の中には、人が喜ぶ良い行為をする人がいれば、人を殺めたりする人まで幅広くいます。(一般的な人間が思うような良い悪いの視点に立っての話です)

もし、それを神が許可していなかったとすれば、悪と言われる現象自体がこの地球上で起きようがないと思うのです。

もし神が悪いことをすることにジャッジしていて、悪は存在させない、としていたとすれば、ヒトラーは生まれなかった、と誰かが言っていましたが。

本当にそうだなあと思います。

大きな大きな宇宙の流れとしてはきっと良い方に流れていると思うのです。

その守りの中ですべての出来事が、個々の人々に与えられた神の力=創造性によって起きていることではないか?と思うんですよね。

なので、わたしに与えられている創造性の力には自由性が与えられているということなんです。

このことに気づいたとき、ワクワクしました(*´▽`*)

だからといって、悪いことを選択する、ということはあり得ません。

この宇宙理論を理解することで、自分には力があるとわかるので、何も人を蹴落としたり、何か危害を加えなくても、自由に自分の望みの人生を創造する力があるとわかるので、あえて悪いことをする必要性を感じないということになるんですね。

このような視点で見ることで、私は神の愛を感じることができるし、自分がどれだけ愛されている存在なのか?ということについても理解できるようになりました。

意識の使い方ひとつでこうも自分が変わるものなんだなあと感じます。

今、しんどい思いをされている方は、宇宙理論いいですよ。

エイブラハムの引き寄せの本などから入られると良いかもしれません。

また、ハッピーちゃんの話しているYouTube動画なども今の時代は簡単に見ることができちゃいますからね。

ハッピーちゃんの初期の頃。「世界は私が創る」というように語っている動画からチェックされて理解をすすめられるのもいいかもしれません。

なんだか、ついつい私の性質が隠せなくて、長くなってしまいました(笑)

 

 

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