愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

大山渓谷へ行って気づく自己肯定とは?

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大自然に匹敵する自分なのかもしれない、と思ってみること

今朝は主人と鳥取県の大山の渓谷へ行ってきた。

そのあと、はじめての朝マック(笑)

わたしは自分が癒されることを目的に行ったわけだけれど、その時、目の前にそびえる神々しい大山に惹きつけられてなれながらこう思った。

「なんて大きなエネルギーで魅力的なんだろう」

そうなんだ。人は大きな魅力的なエネルギーに対して惹かれ、その分、自分の魅力を小さく見積もってしまう、ということを。

私が今日大山や渓谷に癒されることは構わないが、決して自分はいつもそうした大自然のエネルギーがある場所へ出向かないと完全ではない、ということはない、ということを思った。

このことは、今朝の瞑想の時に、実は気づいていた。

朝、瞑想中、私のハイヤーセルフのミカエルにこう尋ねた。

「今日は渓谷に行って癒されたいと思っているのだけれど、台風も来るし、行くなら朝早く行かなくちゃならないよね?」と。

そうしたらミカエルの返事があいまいだった。

私の予想は「行ったほうが良い」と言うにきまっている、と思っていたのだけれど・・・

そこでもう少し突っ込んでミカエルに聞いてみると、どうやら「どちらでもよい」と言いたいようだった。

つまり、瞑想をしたりして、自分の本来の状態に気づくのであれば、必ずしも自然の癒しは必要ないということを言っていた。

今の私の調子はまだいまひとつと思っていても、ゆるやかにでも、元の私のスッキリした状態にいずれ気づける、元に戻れる、ということを伝えてきているように感じたからだ。

それを今朝、ミカエルから受け取っていたので、大山を見た時に、前述したようなことを感じたのだった。

わたしは今後、どんな優れた人を見ても、どんなにすばらしい大自然を見たとしても、それは同時に自分の中にある、ということを知らせているにすぎない、ということを肝に銘じたいと思った。

確かにその時、大自然はわたしを癒してくれるだろう、でも、その限りではないのかもしれない。

私の中にもそうした力が元々ある、ということを先に見せてくれているにちがない。

こうしたメッセージを感じたため、家へ帰り、改めて宇宙エネルギーと一体となる瞑想をしてみたのだった。

すると、朝よりまた一段意識がクリアになったようには感じた。

だからきっと今後、瞑想をしたりする中で、覚醒をすすめていくことができるにちがいない、と思った。

 

瞑想の一人立ちをする?しない?

私は、今までやっていた瞑想を手放すことに少し前まで恐怖感があった。

それは、神と常人は波動がかけ離れすぎて繋がることができない、そして、今の瞑想をするとより精妙なエネルギーで清めるため、その瞑想をやめることで、以前より自分が汚れやすくなる」と聞いていたからだ。

それは、真っ白いシャツがあるとすれば、いろんな模様がついているシャツ以上に、汚れを吸収しやすい状態となる、と例えると意味が伝わりやすように思う。

それで、友人に「瞑想の会をやめるのに瞑想を手放すことが一番ネックなの」と言ったことがあった。

それに対して友人は「瞑想なんて誰でもやっているよ」と言った。

前述したように私にとって、今までの瞑想は唯一無二の瞑想で、それ以外の瞑想なんて危険だ、と自分に刷り込んできたので、それを手放すことには恐怖を感じていた。

だけど、この友人が言うなら、わたしもオリジナル瞑想をやっても大丈夫なのかな?という思いになることができた。

そこで私が今までの瞑想に代わって取り入れようと白羽の矢を立てたのは、ハイヤーセルフに導いてもらうのをベースに置いて瞑想をするというものだ。

これであるならば、別に自分のエゴで突き進むこととは一線を画しているように思えたからだ。

また、ハイヤーセルフに導いてもらえば、それは自分専属の導き手であり、自分の高次の姿であるため、何か団体に縛らることもないし、上から言われるように感じることもない、という私の望みと一致するから挑戦したいと思えたわけだ。

ハイヤーセルフがどのくらいの力をもつのか、正直はっきりわかっているわけではないのだけれど、やはり自分の最上の状態のひとつの象徴ではないかとは思っている。

私の師はすごい人物ではあるが、悟っているのかもしれないが、だからと言って私自身がそのことをはっきりとわかっているわけでもない。

ただ、エネルギーが心地よい、すごくパワフルで静寂だ、と感じたから、教えを乞うた、ということにすぎない。

それは、今までの自分には必要だったにちがいないし、恩もあるのかもしれない。でも、反面、自分の心を抑圧しがちになったり、何か縛られ感が付きまとっていたことも私にとっての事実だ。

そして、師についた時の自分というのは今から10年以上も前の自分であり、自分に対しては無力感は当然ながらもっていたことを思うのである。

だからこそ、自分が気付きを得、本来の状態に戻るにつれ、縛りを感じたのかもしれないし、一生涯、こうした状態がつづくとすれば私はいやだなと思った。

いつか自分は自分として自由に誰にも縛られないような心境で生きてみたい、という思いが募っていたのだった。

そして、今、令和にもなり、地球エネルギーが高まっている状態を信頼し、一人立ちを試みている。

友人のように、ひとりでも、「今は自分で直接宇宙と繋がることが可能」という人がいるなら、そちらの可能性にかけてみたいと思ったわけだ。(そして、このように言っている人は、現在では実はたくさんいることも今の私は知っている)

つまり、師のエネルギーガイドのある今までの瞑想ではなく、自分が直接ハイヤーセルフをガイドにして宇宙と直接繋がる瞑想をスタートさせているのである。

ただし、今はまだ、宙ぶらりんの状態で師のエネルギーから完全に外れたてはいないこともあり、正直自分の瞑想について、完全に行ける!と確信できているわけではない。

しかしながら、自分の宇宙は自分だけが創造主である、という宇宙理論を受け入れている今の私であるかぎりは、そうした不安は捨てることさえ自由と言える。

さらに言えば、その恐怖や不安を捨てることができない、と思っているというなら、自分の力ではどうにもあらがうことができない力が私の宇宙の中に存在していると認めていることと同じということになる。

でも、よく考えれば、そんなはずがない。

そもそも、恐怖や不安そのものが幻想であり、宇宙エネルギーの質から大きく外れている。

ということは、私は単なる思い込み、罪悪感、無力感、何かここらへんの価値観を抱え込んでいるということを突き止めることができる。

そして、ここまで見えた時に、さらに一歩前進して、これらを「捨てる」「いらない」と宣言することがカギではないかと思う。

実際にそう宣言すると、幾分自分が自由になれると感じるのだから。

ここは自分にとっては強固な思い込みであるかもしれず、もしかすると宇宙にオーダーしても、タイムラグもある関係で、切り替わったことがすぐに感じ取れはしないとしても、いずれその壁はどろどろになって薄くなり、すっかり取り去ってしまうことになるのだろう。

また、現実世界に変化が表れてくるにちがいない。

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