愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

神の愛はやっぱり大きい

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今朝はスッキリパワフル

今朝は目覚めが割とスッキリしていて、きのうの目覚めとはちがい、ちょっと安心した。

恐いイメージのものが出てきたとき、これが一番魔界的なものに通じる?ということなのかな?と思っていたため、ここを自分で乗り切れると思えないと師がおっしゃっていたように自立することは危険にちがいないと思っていたからだ。

でも、今朝の自分の様子からすれば、いままでの瞑想を手放して、オリジナル瞑想やヒーリングなどを駆使している自分は、これでいいのだな、というかんじがした。

というか、以前よりパワフルで清々しくなっているような気がする。

今朝のオリジナル瞑想も良い感じだった。

今まで師について瞑想をやっていたときには、盛んに「自分でオリジナルで瞑想をするのは危険」ということだった。

で、この言葉がとても自分にとっては足かせになっていたことを今思う。

この言葉の真意というのは、自分勝手な思いで、たとえば、「あの人なんてのろってやる」とか、そういうエネルギーと一体になったりすることが危険と理解できていれば良い、ということなのだろう。

逆に言えば、普遍的な宇宙エネルギー=愛・調和・信頼・やすらぎ・平和・リラックス・・・

このような質である自分の本質のエネルギーに繋がると意図できるのであれえばなんら問題ない、ということだったにちがいないと思う。

ただし、自分に対して無価値観があったり、無力感をもっているところがあった私は、「変なことを思ってしまうかもしれない」という自信のなさもあり、

そこにそういった言葉を聞いていたため、自立していく、という考えなど以前は出てくるはずもなかなったのだろう。

でも、今まで師について瞑想をしていたおかげで、根源のエネルギーと繋がって瞑想をするということの大切さを学ぶことはできたのだと思う。

師は当然、自分の教えを信じ切っている立場であり、師の考えでは一生涯の繋がりというか、永遠の繋がりというか、そういった点があった。

なので、私が師から離れる立場を取ることは、師にとってはあり得ない選択にちがいない。

でも、私にとっては、自分の宇宙である以上、いつまでも師を上に置くことはできない。

わたしとしては、どんなにすごい師匠であろうと、同じ宇宙の素材でできているので行き着く先は、同レベルだと思うし、そのことを認めるための旅が自分の中にはじまったから、離れる覚悟ができたのだと思う。

目の前に「すごいなあ」と思う人がいたなら、それは、自分もそうなれる、ということ、というような話を見聞きしたことがあるけれど、宇宙理論を学んでから、理論上もそうなるなあとすべてが矛盾なく腑に落ちた。

私が理解している宇宙理論では、自分=宇宙エネルギー=神=愛=信頼・・・というが前提としてある。

そして、自分の宇宙はこの私が創造した立場であり、自分の上に神さえ置くことはなく、対等だ。

ということは、自分の宇宙の中で見る人、出会った人というのは、イコール自分の姿なわけだ。

となると当然、サイテーと思うような人も自分でもあると認めていくことになる(笑)

今の自分がどのようでありたいか?そこを明確にすることで、自分自身を理想の状態へと創造することが可能ということになる。

このように思うと、神の愛の大きさというものをひしひしと感じるのだった。

 

神はきっとこんな感じ

私はこれまでひとつの疑問をもっていた。

神は人間をとても愛していらっしゃるはずなのに、どうして、わざわざしんどい思いをするような人生という舞台に私たちを送り込まれたのか?ということだった。

宗教的な観点では、そうした中でさまざまな試練を経ていき、人間の成長を望んでいるのが神なんだ、だから、どんどん進化して立派な人格になっていかないとならない、というような教えが含まれているものが多いように思う。

そして、人格的な成長を思えば思うほど、しんどくなってしまったり・・

だけど、こうした教えを聞いたとき、私の中で腑に落ちない思いが付きまとうのだった。

なぜかと言うと、最初から愛である私たちがなぜまた愛を学ばなければいけないのか?ということだった。

だって、もうわかってるじゃん!!って。

神のもとにいて、地球に降りていく、と相談している時、もうすでにわかっているのになぜ?って。

それっていじめだべ、わかっているのに、わざわざ苦しい思いをさせるのだとすれば・・。

私は神という愛の方がそんなことをさせるはずがないとずっと思っていたから納得がいかなかった。

けれども、神の真意はそうではなかった、ということが宇宙理論と出会って明確になってきた。

神はこのように言っているのではないか?と思い、とても腑に落ちた。

「遊んでらっしゃい。ひとりひとりに宇宙という壮大な舞台装置をつけているからね。そこであなたが放った波動によって現実を創造できる能力を与えているからね。

あなたから発する波動によって何を放つかは完全にあなたに任してあるからね。

自由に創造する喜びを味わいなさい」

つまり、例えば、わたしが人を殺めて、そこからものすごい心情を味わう体験をしたって、大富豪と結婚して楽々人生を歩むというのもどちらの自由も与えているということにちがいない。

人間的な話で言えば、母の無条件の愛というのは、たとえ我が子がどんなひどいことをしたとて愛を注ぎ続けることは何ら変わらない、というのがあると思うのだけれど、神の愛というのもきっとそういうものなのだろうと感じるのだ。

もし、このように自由を与えられているということならものすごい深い愛なのだなあと素直に思える。

たとえ間違っている、と思えるような生き方をしている時でさえ、ずっと神は自分を許しているし、一切のジャッジさえせず、愛しているのだ。

そればかりか、自分の意図する力を使って、なんでも創造できることができる。

自分の人生に登場する人たちはすべての人がエキストラであり、舞台装置は宇宙そのもの・・。

目の前に広がる大自然はもとより、近代的なビルディングが登場することもある。

自分の宇宙の舞台装置と比較するとハリウッド映画なんて、比較対象にすらならない。

しかも、一切の費用もかからず、元々与えられている能力なのだ。

個々の人たちは皆自分の人生の主演なのだ。

ヤバい、すごすぎる!豪華すぎ(笑)

このように私は宇宙理論を知ってからというもの、本当に神像というものが腑に落ちたのだった。

神の深すぎる愛と、人生のすばらしさについて感じることができるのだった。

そこで、私が自分の人生をどう生きたいのか?と思えば、

やはり、自分は元々の神エネルギーとして、愛として生きる、ということを中心に置いてそこをブレることなくやっていけたらなあと思うのだ。

当然、ちょっとした心のレベルや潜在意識レベルでの揺れはあるのだろうけれど、超意識のハイヤーセルフと共に歩むことで、随分と安定して歩んでいけるのではないかと思っている。

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