
誰かにわかってほしいと思う時、本当にわかってもらいたいのは誰?
いい子ちゃん傾向の私
私の傾向は基本的にはいい子ちゃんだ。
妹に言わせると、「私は、人の言った10の事の大変を聞き流すけど、お姉ちゃんは10聞くようなところあるよね?」と言われるけど、自分でも「確かに」と思う。
よく言えばとても素直でピュア。
悪く言えば、自分で何も考えてないアホ?(笑)(こんなところもかわいいのだ!♡)←そのように今ではすべてを受け入れる。
もちろん、今の私は全然そういうわけじゃないけれど、子どもの時の私~20代前半まではその傾向が全面に出ていたように思う。
今、思うのはその資質をもっていた上で、私の父は威圧的だったり、母は放任的だったことで、自己肯定感がなかなか身に着かなかったように思う。
人のことは全面的に肯定しようとし、自分はおざなりになってしまう、心の内側をもっていた。
そのままずっと平和にやっていけるなら何も問題はないのだけど、実際には、ある時大きくつまずき、そうした部分に気づかされる。
やさしくしてほしいという気持ち
私はずっとそんな自己肯定がしにくい自分のことに気づいて以来、治したい!みたいな感じで長年思ってきた。
でも、行く場所行く場所で、自分を認めてもらえない、と感じる経験にぶち当たるのだった。
だから、何かどこかの組織に所属する、ということが長続きした試しがない。
いつも結局しんどくなって、不自由に感じるので、楽しむことができなくなってしまう。
そして、心の中では、「どうせ私は、どこへ行ってもうまくいかない」という言葉をつぶやいていたりする。
「結局、誰ともなじめない」などと思ったりする。
私は、こういう拗ねている自分の部分に対して、やさしい言葉をかけてほしいとしか思っていないような気がする。
なぜかと言うと、厳しいことを言われると、余計に心が閉じていくことがわかるからだ。
「もう、いい。わかってくれんから」となっていく。
それはまあ、両親にやさしく自分を肯定してほしかった、というのがずっとあったからだと思う。
逆に放任のまま、甘々で、適切に注意を与えてもらえなかった人の場合、しっかり叱ってほしい、とい風にになるのかもしれない。
心を扱う時には、人によって拗ねるクセがあると思うので、対目の前の人物に、一体今どちらを与えると、心がふっと緩むのか?ということを考えて接すると役立つこともあるかもしれない。
自分にわかってもらうと解決する!
実のところ、そういった望まない現実が現れているのは、自分の内側の投影でしかない、ということを今、静かにそう思う。
一番にわかってほしい人って、実は外の誰か、ではないのだ。
自分自身に一番色んな気持ちをわかってほしいし、すべて丸ごとOK!と受け止めてほしいと思っているのだ。
私は、怒ってほしいんじゃない!!ただただ優しくしてほしい。と相手に言っているようで、実は自分に訴えていたのだ。
本来は小さい頃に、親からそれができるように愛情をたっぷりもらって、自然と自分を自分で肯定していくことができるようになっていくのだと思う。
でも、それができなった人は世の中には大勢いるにちがいない。
自己肯定のためのポイント:誰かにわかってほしい、は本当は自分へわかってほしいということ。
自分の思いはオールOK!で受け止めていく
自分に一番やさしくしてほしいというのに、自己肯定感の低い私は、それ自体がむずかしくわからなかったため、しんどかったのだと思う。
だけど、私が決定的に取り入れないとならなかった考えが、最近になってわかってきたことで、グッと楽になってきた。
それは、「自分が感じることはオールOK!」という受け止め方だ。
今までの私を振り返ると、「いい人にならないといけない」ということに異常にとらわれていたように思う。
だから、自分の中で、何か人を批判する気持ちが湧いたり、きらい、と思ったりする気持ちに蓋をするようにしてきた。
でも、そもそもどうしてそんなにいい人にならなければ・・というような正しいことに固執していたのか?というと、そこがこれまた自己への無価値観からきているんだな、ということがわかってきた。
そうではない人の場合は、自分の感情をありのまま受けとめる方を優先にできるのだ。
でも、自分には価値がない、ダメなやつだ、という風に思いこんでいるタイプの人は、自分のありのままの感じ方には蓋をしたり、無視したり、強烈なダメ出しをしたりするのだ。
つまり、いかにも正しそうなことに突っ走っていきがちの人というのは、自分が無価値だ、という感じを抱えているからかもしれない?と一度疑ってみると良いかもしれない。
自分のことを本当に大切にしている人は、自分が正しくなかろうと、本音を大事にすると思う。
ここで、私が自己肯定感をあげるために、キーポイントと感じる点が一点ある。
それは、中途半場じゃダメ!ということだ。
どういうことかというと、あの人が嫌い、と思うことまではOKだけど、あの人はほんっと消えていなくなってほしい、とまでは思っちゃいけない、という制限を設けないことだ。
これをしてしまうと、ここまでの自分はOKだけど、ここはダメ!という風にまた自分にジャッジをしてしまうことになるからだ。
それをしはじめると、元の木阿弥になっていくような気がする。
オールOK!と思うことができる根底には、実は絶対的な信頼があるのだ。
そこには、宇宙の本質が愛である、という考えがある。
自分という存在には、常に愛が降り注がれていると信じていることだ。
でも、これって真実なのだと思う。
私はこの部分については、もう散々、学んできたようなところもあり、確信をもってはいる。
ただ、それはそうなんだけど、自分にはトラウマのようなブロックがあり、それを体現できない、という風に思っていたと思う。
でも、ふいに思ったことは、
いつもその愛が私を包んでくれている、私がどんなばかげたことを言おうが、やろうが、どんなにひどいことを思おうが、はっきり言って宇宙はそんなの関係ないのだ。
一切ジャッジすることもない、ただ愛の状態が通常運転といえるわけだ。
な~んだ。ってなもんである(笑)
愛のプールの中で、私は無邪気な子供のようにああだこうだといつも好き勝手やってるとして、そんな自分の未熟な感じもいつも温かく見守られているということになりはしないか?
それがわかれば、私OKじゃん!どんな時でもOKじゃん。愛され続けているんじゃん!天国じゃん、となってくる(笑)
逆に言えば、それを信じていないから、ジャッジを下して、ここは受けとめるけど、ここはNOと言っていた、ということにも気づける。
当然、今でも日常生活の中では、迷ったり、凹んだり、色々な波がある。
でも、ひとたび、そのことを思い出すと、いつだってそうした中心軸に戻れるようになってきたから、ふしぎだ。
今までどんなに考えても、こんなにシンプルなことがわからないでずっと葛藤し続けていたのにもかかわらず、今では、どんなことがあっても、守られている安心感に戻れる感覚になってきた。
この違いは何か?と考えてみると、丸ごと受け止めている方は、ザックリ言ってハイヤーセルフの視点で自分のことを見ている、と捉えてもあながち間違いではないかもしれない。
それに比べて、自分をあれこれ判断・ジャッジしてしまうのは、低い自分のエゴと同化した視点と考えることができるからだ。
この2つの違いが想像以上に大きな違いを生むのかもしれない。
自己肯定のためのポイント:自分の感情は丸ごとオールOK!で受け止めることがポイントとなる。宇宙はただ愛なので、私がどんなでも愛され続けているというのが真理と知っておくと受け止めるのが怖くなくなる。