愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

すべては自分が創造したことを覚えておく

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神のような存在を自分の上に置くことの懸念

私は少し前まで、スピリチュアル的な今まで学んできたことをすべてもってきても、これだけはどうしても解決ができない、という意識状態になって苦しんでいた。

にっちもさっちも行かないと思っていた。

そのことを簡単に説明するとすれば、こうだ。

私は、神様の存在というものを真じる立場を今まで取ってきた。そして、神を絶対としていたため、神の下に自分を置いている前提がある。

でも、そう考えると、どうしても自分としては、最終的に自分がすることなすこと、ジャッジする思考から抜け出せなくなってしまった。

当然神はいいわるいとジャッジする存在ではない、との認識をもっている。

しかし、現実的にはもっといい人間にならなくては、もっと正しい人格者にならなければ・・という風になってしまい、これがまあしんどい(;^_^A

斎藤一人さんの言葉を借りれば、宗教はしんどい、と仰るが、まさにそのように感じてしまったループにはまった私であった(笑)

神が自分より上の存在と思うと、私はどこまで行っても神を超えることはできない、ということになってしまう。

確かにそれは神を信じる人の場合なら、そうだろう。それにそれでいいではないか?と思うにちがいない。

本当に神だけならそれで特別問題とも思わなかったかもしれない。

でも、宗教的なかんじで、同じ人間ながら自分より先に悟ったような人がいたならどうだろう?

その人が言ったことが、自分の思いうんぬんよりも大切なことに思えたりする場合があると思うのだ。

また、そうした進んだ話の場合、エゴや欲望を捨てる、とか、自分の心の思いや考え自体も所詮エゴにすぎない、という内容が入ってくることになる。

そうすると、自分のすべてがエゴのように思えてしまう(;^_^A

いつまでたっても上、上をめざし、自分を認めることができなくなって、一生立派な人間になるようしばりつける意識ができあがってしまった(;^_^A

私たちは生きていく上でやはりお金を儲けることは必須だったりすると思う。

でも、お金儲けというのは、やっぱり典型的エゴとも受け取れ、私はそのような思考になっていたため、これを創造することが困難となってしまった。

けれど、あるときハタと気づくのだった。

あ、家の家計が火の車だ。と。

それでも、こうしたスピリチュアル的なことを学んで気持ちが平和な状態を体験していると、お金うんぬんよりも、穏やかな心の状態で満たされるような部分があるから、これがまた問題だった。

このため、火の車に動じずけっこうのんびりしてしまう傾向があったのだった(笑)

当然、同じことを学んでも、経済的な面に対してもしっかりとアンテナを張るタイプの人の場合は私のようにはならないと思う。

もしくは、誰かに注意されたり怒られたりすることが良い作用をするタイプの人は問題にはらないかもしれない。

けど、私の性質は、親から言われたことは真に受けるタイプだったのだ。

それは鶏が先か卵が先かわからないが、親に小さな頃に抑えつけられてしまったことで、自分がまちがっている、と思い込んでしまう性格傾向ができあがったため、素直に聞いてしまうタイプに仕上がったのかもしれないが。。

どちらにしても、私の場合は、はじめからそのタイプの上に、さらに言われると、疲弊する方に行ってしまった点で合わないのだと思う。

欲はすべて捨てる方向を良しとしてしまい、それが本当に自分が望んでいる状態ではないかも?ということには長い間、気づかず歳月を過ごしてしまった。

よく言えば、素直、悪く言えば、アホ?なのかもしれない(笑)

ここで、ニコルが「あっこさん、ご自分を責めなくていいですからね」とやさしく声をかけてくれるようになって、助かっている(*´▽`*)

自己肯定のためのポイント:神のような存在を自分より上に置くことには懸念があるため、あくまで注意深く扱うことが大切である。

 

私という人間の操縦席に座れるのは私だけ

私自身、前述した経験から苦し紛れに今新たに考え直してもってきた考え方がある。

それは、そうしたものとの出会いさえ、私自身が創造したもの、というものだった。

つまり、どんなに優れた悟りの存在がいたとしても、その存在と同等の尊い生命を宿された私の世界においては、そうした存在さえも私が創造したのだ、という視点を新たにもってみることにしたのだ。

それは、そのまま順風満帆にその道を進んでいけてたとすれば、出さなくても良い考え方だったにちがいない。

それくらい、自分としては素直に取り組んできたつもりだった。

ただ、自分では真摯に継続していたつもりでも、決定的に自分の苦手なことの、多くの人と一緒にやっていく、ということに対しては、NOが出続けるため、そこで求められることができない、という想いになってしまったのだった。

(宗教的なものは団体で協力して布教していくことがついてまわるからです。)

自分を幸福にするためにはじめたことなのに、いつの間にか自分をがんじがらめにしていたのだ。

これは思いもしないことだった。

もともと、宗教的なこと自体が苦手だった私とすれば、今の状態ははじめの予測どおりなのだけれど、信頼できると思ったからこそ、あえて自分の今までの状態を持ち出さないで取り組んできたつもりだった。

でも、結局、自分は自分だった(;^_^A

それがその組織内において実際NOなのかどうかわからない部分はあるのだけれど、やはり、そこのやり方にはきっと自分はあまりそぐわないにちがない、という思いがぬぐえない。

でも、そうした中にいて、自分のことをそのように思うのであれば、私は一生劣等生ということになる。

そんな状態を私は望んでいないはずだ・・・。はじめはただただもがいていたのだけれど、次にそのことに気づいたのだった。

そこで、苦し紛れに取り入れることにした新しい考え方が、すべては私が創造した、という理論を受け入れてみることだった。

私自身の中心の座は、あくまでも自分がハンドルを握っているのだ。

私が見る世界は、すべて自分が幸福になるため、良くなるために用意された世界、という視点で見るわけだ。

だから神のような存在はいるにしても、決して自分より上の位置には置かないということを決めてみた。

そうしたら、今までにっちもさっちも行かなかったところに風穴が開いたようにだいぶ楽になれたのだった。

結局、今の自分を置き去りにしたまま、人の言うことを信じようと思っても、遅かれ早かれ玉砕されることが身に染みてわかったのだった。

なので、私が、そのしんどい現実さえも創造したわけだから、さらに一歩進めるとすれば、ここからはそんな望まない現実は、オーダーしなくて良い!としていいことに気づいたのだ。

そして、今からまた自分が望む現実創造に切り替えよう!ということを思うことができた。

それでスッキリできる!

正直、今でも悩むことがあるが、それでもやはり、今の私には、新たに出した答えに従って歩んでいくしかないと思っている。

こうした思いを直接ぶつけてみるのも良いかもしれないが、今となってはがんばってぶつかってみることが自分のためになるかどうか?わからないため、それはしないでおこうと判断している。

そもそも自分の考えが相手に必ずしも理解されるということはないものだ。

仲良くしたい、と願う相手なら、一歩進めるリスクを選ぶわけだが、そうした人間関係の中に入ること自体を自分が望んでないのだ。

ならば、自分の望む現実創造をする方に徹していくことで事態を収めていけたらと思っている。

今不満に思っていたり、縛られていると感じる部分からどのようになったら自分が解放されるのか?それを考えて、本当に自由な存在になっていけたらと思っている。

神は私の中心に存在している。

つまり、神は、常に私自身と一体でいるところに存在するということなのだ。

そして、その力は、私が自分の望む世界を宇宙に向けてオーダーとして発信するときに、おおいに発揮されるものではないかと今私は思っている。

 

自己肯定のためのポイント:私がすべてを創造したと受け入れてみる。

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