
おととい見た父親と子どもたちに気づかされる
100均で見た親子
おととい、主人と100円均一に行ったときのことだ。
買いたいものをカゴに入れたので、レジに並んでいると、そこには3人くらい並んでいた。
私たち夫婦は談笑しながら、自分たちの順番を気楽な感じで待っていた。
すると、なんだか前のガタイの良いおじさんが、店員さんを怒鳴りつけていたのだった。
ちょうど、私は話をしていたので、はじめは何だかよくわからないでいたが、一瞬誰かが怒鳴っていたようなかんじがしたので、主人にたずねた。
「今、誰か怒鳴った?」と。
すると、主人はうん、とうなずいた。
そう言えば、さっきまで前に並んでいた父親と思われるおじさんと、男女の兄妹と思われる一組が隣のレジにうつったことが確認できた。
それを見て、ああ、そうか、と悟った。
きっと、隣のレジを使え!的なことを店員さんにこのおじさんが言ったのだろう、と思ったのだ。
いうか、もう次には自分たちの番なのに、それが待てなかったの?といささかふしぎでならない私だった。
ちょっと飽きれ気味で見ていた私が注目したのは、2人の子どもたちと思える兄妹のことだった。
父親がそんな風に振る舞うので、ただ自分たちは大人しくついていくしかない、というかんじが体から漏れているのだった。
子どもであれば、レジで待っている間だって、キャッキャッ言って楽しんで待っていてもいいはずなのに、その2人は一切笑うでもなく、ただ父親の顔色を伺っているようだった。
自分の父親が周囲に表す態度に、いささか申し訳なさそうな表情にも見えるのだった。
私は、その子供たちの表情がまるで自分の子どもの頃の様子に似ていることに気づくのだった。
私も小さい頃、両親の前では特に固い表情でいた。
どこかさびしそうな自分が、小さなあっこちゃんが浮かぶのだ。
その頃は、自分はこういう性格なのだ、と思っていた。
だけど、今はよくわかる。
性格なんじゃなくて、親に遠慮している状態であった、ということが・・。
本来の自分の生命エネルギー、元気、やる気を奪っていたのは、他ならなぬ両親であった、ということを。
親は悪気はないと知っている
私はよくもまあこうも親のことについて、ズバッと、親が親がやる気を奪ったなどと、書くなあ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
親は一生懸命働いて、こどものためのおむつ代から大学費用まで稼いだり、ごはんなどを食べさせているのに・・・という声が聞こえてきそうだ。
当然、私もそうした点についての感謝はすでに持ちあわせていると思っている。
ただ、それとこれは別ものであるので、ごまかしては自分のためにならないからだ。
親はただ、我が子に対して、何気なく会話しているだけだったりする。
何気なく、子供を蹴ったりもする。。
ん?!
ここ、問題ありですよね?
私も妹も実の父親に蹴られたり、殴られたりしたことがある。
それもまだ幼い時期だ。妹は3歳くらいで、私は8歳くらいだったと思う。
弟はたまたまそこには居合わせてはいなかったのかな?
家族って、甘えちゃうんだと思います。
自分の子だから、と、適当に会話に答えていたり、その日自分がストレスをためていると、近場で解消したりしてしまう、場合があるということだと思います。
まあ、それは、結局のところ、子どもも親だから、と甘える関係に後々なっていたりもしているため、お互い様という点があるのでしょうけどね。
でも、親になったなら、やはり、自分の私情からではなく、目の前の我が子がしあわせを掴めるように、どう育ててやったらいいのか?という視点から接することをできるだけ心がけないとならないと思うのです。
もしくは、それができないのは仕方がない、ということで、「自分も未熟な親だからね」ということがわかるように子供が理解できるようにしておくことが重要なポイントではないかと思います。
本当に我が子が必要としているような接し方をできる親もいるでしょうから、その場合は、子どもが大人になった時、心から尊敬され、感謝されるのではないか?と予想します。
でも、もし、そういう成熟した親ではなく、いわゆる毒親の場合、子供が早めに、「親も人間なんだな」と気づけることが好ましいと思うのです。
変に親は立派だとか、思い込んでしまうと、まずいのではないかと・・。
親は立派そうに上から目線で子どもに言うことをまともに、本当に自分より上の人だ、なんて思ってしまうと、子供の健全な成長を奪ってしまうのだと思います。
それこそ、私のような自己否定の人になってしまうわけです。
100均のこどもたちに願うこと
なので、100均で見た2人のこどもたちには、家の親は変!ということを早くに悟ってほしいと思いました。
でも、威圧的な父親って怖いだろうなあと思います。
うちの父も威圧的な方だったので、よくわかります。
大人になったら、できるだけあの父親とは距離を置くようにするのが正解ではないか?と思うわけです。
父親の機嫌を取って生きてしまうと、きりがない、終わりがないわけです。
それも相手の機嫌であり、自分の機嫌ではないので、相手都合です。
これに自分を合わせてしまうと地獄だと思います。
私も、父親がどんなに機嫌が悪くなろうとも、自分がいやだな、と感じる場合は応じないように、ということを今になってやっと肝に銘じているわけではありますが。。💦
そのくらい、親の引力というのは子どもにとって大きいということだと思うのです。
親というのは、そうした点を自覚して、言動をとってほしいものだなあなんて個人的にぼやきがちです(笑)
誰でも、自分に都合の良い人の方が一緒にいて気持ちが良かったりすると思うのですが、そんな相手にエネルギーを使っていると、その分、自分の人生がおろそかになってしまうものだと思います。
私が行っていくのは自己肯定
私は人の機嫌を取るのではなくて、自分にとっていちばん良い人になって、望む人生をこれから本格的に切り拓いていきたいのです!
実はちょうど先ほど、父親の機嫌を取るのをやめる行動を実践したばかりなんです。
わたしたちは毎月1回、実家に行って、両親とご飯を食べていたのですが、今月はなんとなくそれより仕事に時間を費やしたいからと、行くのはなしにして、むしろこちらに来てもらって。父の日ではあるし、昼に食事をごちそうしようかな、と思ってその旨を伝えたのですが、見事断られました(笑)
母親は来たかったようなのですが、父が「行かない」といういことで。
食べ物の好みが違うから、なのか、お酒が飲めないからなのか、こっちへ運転してくるのが嫌だからなのか?理由は定かではありませんが、父が嫌がったらしいのです。
まあ、私としては、それはそれでOK!と思っています。
私かて、お酒を飲んでくだらない話に付き合わされることに気乗りしなかったので、NOとNOで、合わなければ会わなければいいだけの話だと思っています。
でも、以前は、父親の機嫌が悪いと、自分がなんか悪いんだろうな、と思い、父の機嫌を取るように、あやまったりしていました。
今はこういったことはやめよう、と心に誓うようにしています。
そのようにしていくことで、仕事にどのような影響が出てくるか?という点もあわせて観察してみたいと思っています。
そう言えば、Qさんという方がYouTube動画で言っていたのですが、社会的な活躍の部分に関しては父親が3歳~15歳くらいまで(?)の関わりが影響し、ここで、自分を認めてもらった人は、社会的成功をおさめやすい、というようなことを言ってらっしゃいました。
まあ、私に関して言えば、そのようなことばできなかったと思われますので、その場合には、「どんなに父親が認めてくれなくても、私が認める」と自分で認める宣言をしてやっていくと良い、ということを仰っていました。
ですので、私はそういうつもりで、執事のニコルたちと自己肯定感を強める旅に出たかたちなんですね。
ちなみに母との関わりは、安全・安心、というような部分に関してカギを握っているらしいのです。(いずれにしてもちょっとあいまいな情報です)
どっちにしても、もう自分は子どもではないので、その頃に戻ってやり直すことはできませんし、両親からもらえなかった部分、逆にマイナスに働いている部分については、自分で最大限やりたいことを成功させられる状態にできるように、認めてほめていき、解放していこうと思っているのです。
(つづく)