愛され姫と執事たちの日常

自己否定が自己肯定に変わる!実験的日記

日記

神の願いを正しくとらえるとどういうこと?

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神という存在

神という存在をあなたは信じますか?

私は、神のような存在は信じる方です。(最近、ですます調だ、笑 気の向くままに行かせてもらいます)

まあ、大いなる存在とか、宇宙的な愛とか。実態がわからないだけに言い方は色々かもしれないし、捉え方も様々だったりすると思います。

ここでは、独断と偏見により、神がいるという私の視点で話をさせていただきます(笑)

この話もハッピーちゃんの話を聞いて、感じたことについて書いていこうと思います。

 

神の捉え方について悩んでいた

私の悩みのひとつに神の正しい捉え方をどのようにしたら良いのかな?ということがこれまでありました。

なぜかと言うと、神をただあがめてしまうとなんだか自分の力が発揮されていかない感覚があったからです。

私は瞑想をしていることもあり、神を信じて、もっと言えば神を信仰して、という視点で自分の望んでいることが叶うような状態にしていきたいと今までトライしてきたわけです。

だけど、なんだかそのような考えでどこまでやっても、どこか自分は神より下のちっぽけな存在、という意識を強めてしまうような感覚に苛まれていたのです。

神を信じなければならない、と思う気持ちにやられてしまうというか。

そう、自分で言うのもなんですが、まじめな人間が陥りがちなパターンだと思います。

どこまで行っても神をあがめる存在にしかなれない、というか、自分らしく開花するような終着点が見つからないようなもどかしさを感じてきたのです。

生きていく中で、時に良くない出来事が起きる場合、神は人を罰する、ということはさすがに思ってはいませんでしたが、結局、神が私の行動を逐一チェックしているような感じがして、そのような思考に陥ってしまう自分の傾向が気がかりでした。

考え方としては、神が人を罰するというのではなく、自分のしたことの結果が跳ね返ってくる、という捉え方です。

でも、これは一歩間違うと、上から神が見ているということがあり、自分のすることに善悪の厳しい目を向けがちになるわけです。

所詮どんなことがしたいと思うにしろ、自分のエゴにすぎないのだから、自分の欲望は滅して無になり、神の力に繋がることが良い、というような感じを内側でイメージしてきたと思います。

ただ、これだとなんだか神をとても恐れ多い存在として捉えてしまう感じになっちゃう私なのです。

たしかに神はそういった存在とも言えるでしょう。

このように思うと謙虚にしようという気持ちが出てきすぎるのか?その分、自分の願望を捨てがちになり、自分の望みが叶わないままになるため欲求不満になってくるのです。

自分の欲望自体を許しにくい思考になっていたわけです。

 

ハッピーちゃんの助け舟

そこに、ハッピーちゃんが良いヒントを投げかけてくれたのです。

まず、神の人物像を考えてみるのです。

そうすると、すべて自分の思い通りになる神というのは、自分に何も望みがない、というのです。

自分で望むことが何もないので、自由意思をもった人間を創り、人間の創造するものを見て楽しもうとした、というようなことを、ハッピーちゃんが言っていたと思います。(もしかしたら、多少ちがうかもしれませんが・・)

そして、「望むこと」自体が神の力なのだ、と言うことなんです。

人はこれまでに色々なものを作りだしては来ましたが、すべて、望むことで、作りだされ、得てきた、というようなことも言っていました。

ほほう、なるほどね。

目の前にある、例えばパソコンも鉛筆も鏡も・・・はたまた飛行機などもライト兄弟が望んだ結果生み出されてものですよね。

そのように考えると、望むこと=自分の中にある聖なる神のエネルギーを放出することというように捉えることができるのです。

そして、個々の人間に、神が与えたのが、望む力 ということが言えるのです。

また、神が必ず良い考えしか持ってほしくない、と思ったのであれば、例えばヒトラーのような人物自体が生まれない、とも言っていました。

でも、悪い事も実際に実現する現実を見ると、見えてくる部分があります。

 

神は善・悪の視点を持っていないというのはどういうことなのか?

つまり、神の中には善・悪はなく、ただ自由意思を与えた人間が個々の望む力(創造性)を使って、どんなものを創り出すのかを見て楽しみたかった、と考えると、私の中で腑に落ちました。

これまでは、どうして神はわざわざしんどい思いまでさせながら人を魂の成長に向かわせるのか?という点がすごく疑問だったのです。

もともと愛しかない世界があり、それを神は十分に知っているのに、人間を創って未熟なところから魂の成長をさせようと思ったのか?それだとなんだか変だな、と違和感があったのです。

どうして、ゴール地点が「愛」だと知っているのに、人間をわざわざ作り出し、その大事な我が子のような存在に色々としんどい思いをすることがわかっていながら遠回りをさせて還って来させようとするのか?

そのことに何の意味があるのだろう??と不思議でならなかったのです。

一歩まちがえたら、いじめじゃないか?と思ったくらいです(笑)

そうではなく、自分の手から離れた存在として、自由意思を持たせて、善も悪もどちらでも良いよ、という視点で好きなことをやってよいよ、という権利をちゃんと人間につけてくれている、と思うと急にしっくりきたのです。

とは言え、そうなると、じゃあ悪いことを創造するのもOKなら、どんどんしちゃおう、とかになるのはそれもなんだか変!と思うわけです(笑)

でも、前回の記事で書いたように、スタート地点として「自分は無力だ」と思う時にはじめて人は自己防衛のために人を傷つけようとしたりするということがあります。

または、人と競争して奪わないと自分の取り分が減る、と思うということがあります。

だから、本当に真理に気づいた視点から望むのであれば、自分の中には神の源泉があるため、無限に豊かで、望むものはどんどんクリエイトできるのです。

そのことを知っているなら、人は他人の不幸を願う必要などないということになります。

そして、ただ人は自分の望みという神が与えてくれている力を使って、無限にこの人生で自分の思うものをクリエイトして楽しんでいい!ということになります。

これだと、人生って楽しみでしかないと思います。

人それぞれが自分の思う好きなものをクリエイトできる夢のような天国だと思います。

こういう状態を神が見たい!というのであれば、すんなり理解できるのです。

神が人間がクリエイトしたものを楽しく愛でている様子がなんだかイメージできる気がしませんか?

 

神を会社の社長さんとして捉えてみると・・

例えば自分が会社をやっているとして、社員それぞれにクリエイターとしての才能を発揮してほしい、と思っているなら、自分には出せない社員どんどん独自の案を出して、表現していってほしいものではないでしょうか?

それを心から楽しめるのではないでしょうか?

大切に想っている社員ががそんな風に生み出した表現を見て、幸せにちがいないですよね?

つまり、神はこのような社長さんの視点でいる、と思うととてもわかりやすいのではないかと思うのです。

よく神は善悪をもっていない、とか言う割りには宗教などですごく良い人になるべきと道徳的なかんじで指導されているイメージがありますが、個人的にはそれをすると自分の奥は欲求不満になると感じます。

やたら、周囲に厳しいことを言ったりするようなる、というのがその証拠のような気がするのです。

だって、自分が幸せだったら、自分と同じようにしろ!と強要することなんてないと思うのです。

人は、本当に、いいなあ、と思ったことであれば、憧れれば、勝手に同じようなことをしたいと思って動くものだと思うからです。

いつものように長くなりしたが、人が欲望を抑えてしまうことに無理がある、と私がずっとそう感じていたことに対して、風穴が開いたハッピーちゃんの理論だったのです。

むしろ人って神の手から離れたような状態にいる中で、自分と神が一体になっている意識になりやすいものではないかと感じるのです。

さいごに、注意点として押さえておくとすれば、自分が出したエネルギーがそのまま還ってくる、ということはきっと本当にそうだとは思いますので、望む未来の波動を今ここで、自分の中から放出する時間をたくさんもてると良いのですね。

ただ、これも、自分のマイナスの感情の抑圧を意味しているのとは違います。

マイナスの感情はそれはそれで見ていかないと、いつまで経ってもそのエネルギーはいいエネルギーに変換されていかないので・・。

なので、今の自分にできる範囲で、無理なく。

日によっては、マイナスを多く見つめる時間があったりもするでしょう。

きっとそれでいいのだと思うのです。

(つづく)

 

 

 

 

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